2020 TANIGUCHI, Moyu

博士学位論文要旨


清酒のアミノ酸鏡像体選択的メタボロームと呈味との相関の解析


大阪大学大学院工学研究科 生命先端工学専攻 生物工学コース

生物資源工学領域(福崎研究室) 谷口 百優


第1章 緒論

アミノ酸には一般的にL-型とD-型の鏡像体が存在するが,自然界における鏡像体の存在比は,L-アミノ酸に

偏っており,かつては遊離型D-アミノ酸は存在しないと信じられていた.しかしながら現在では鏡像体選択的

アミノ酸分析技術の発展により,高等生物,植物,食品など諸所でD-アミノ酸の存在が確認されている.D-ア

ミノ酸の生理機能はL-鏡像体のそれとは異なることが知られており,医学分野においては生体中のD-アミノ

酸の役割が一部解明されている.ところがD-アミノ酸の食品機能についての議論はほとんど為されておらず

,その存在の確認だけに留まっている.特に醗酵食品中では,熟成工程中のメイラード反応で生じるアマド

リ転移化合物のアミノ酸部位におけるラセミ化や,醗酵微生物が産生するアミノ酸ラセマーゼに起因して比

較的多量のD-アミノ酸が含まれることが知られており,その食品機能の構成への関与の調査が期待されてい

た.

重要な食品二次機能である呈味は,食品中の多種多様な成分が複雑に影響しあうことで構成されている

.そのため食品の二次機能を理解するためには,緻密な成分プロファイリングが有効であり,代謝物の網羅

的解析技術であるメタボロミクスを適用することにより実施可能である.機器分析で得た成分プロファイルを

説明変数,官能評価で得た呈味強度を応答変数とした相関の解析を実施し呈味予測モデルの構築,さら

には各成分のプロファイルと呈味強度との相関が解析できる.ガスクロマトグラフィー質量分析法(GC-MS法

)は,ピークキャパシティが大きい,マススペクトルライブラリーが充実しているなどの利点を持ち,メタボロミク

ス研究で最も頻用される分析法の一つである.成分が難揮発性でも誘導体化処理を施すことで分析が可能

であり,呈味構築に深く関与するアミノ酸,糖,有機酸などの低分子親水性成分の網羅的プロファイリングが

できる.しかしながら,従来の食品メタボロミクス研究ではアミノ酸鏡像体は区別されてこなかった.D-アミノ酸

を含む醗酵食品のメタボロミクス研究においては,呈味予測モデルの予測精度の低下,D-アミノ酸と呈味と

の相関を解析できないといった課題があった.

本博士研究では当研究室で液体クロマトグラフィー質量分析計(LC-MS)を用いて開発された鏡像体選択

的アミノ酸分析法とGC-MS法を組み合わせて用いる「アミノ酸鏡像体選択的メタボロミクス解析」によって,D-

アミノ酸を含有することが知られている清酒における成分プロファイルと呈味との相関の解析を実施した.

第2章 アミノ酸鏡像体選択的メタボロミクス解析を用いた長期熟成清酒の成分プロファイルと呈味との相関

の解析

長期熟成された清酒は特にD-アミノ酸を高含有することが知られている.貴醸酒などの濃醇で甘口な清酒

は熟成工程を経ることが多い.熟成された清酒に特徴的な呈味(甘味,酸味,苦味,濃醇さ,余韻)とD-アミノ

酸との関係を調査するために,濃醇で甘口な清酒(市販品15品)のアミノ酸鏡像体選択的メタボロミクス解析

を実施し呈味予測モデルの構築を試みた.LC-MS分析(鏡像体選択的アミノ酸分析)及びGC-MS分析(従

来のメタボロミクス解析)の結果を主成分分析に供して比較したところ,LC-MS分析のみがサンプル間の吸

光度OD 430 (熟成度の指標)の差異を捉えることができ,D-アミノ酸プロファイルと熟成度の高い正相関が示さ

れた.従って,アミノ酸鏡像体選択的メタボロミクス解析によってD-アミノ酸プロファイルを取得できるようにな

ったことで,より情報量が豊富な説明変数を取得することができた.熟成による多量のD-アミノ酸を含む清酒

のメタボロミクス研究におけるアミノ酸鏡像体選択性の有用性が示された.さらにOPLS(Orthogonal

projection to latent structures)回帰分析によって呈味予測モデルを構築し,D-アミノ酸を含む成分のプロファ

イルと呈味との相関を解析した.呈味予測モデルの精度をR 2 値(直線性),Q 2 値(堅牢性),RMSEE(予測残

差)によって評価したところ,甘味,酸味,苦味,余韻において従来法よりもアミノ酸鏡像体選択的方法の方

がより高精度のモデルを構築することができた.また甘味,苦味,余韻とD-アミノ酸プロファイルとの高い正相

関が示された.

第3章 アミノ酸鏡像体選択的メタボロミクス解析を用いた生もと仕込み清酒の成分プロファイルと呈味との相

関の解析

清酒醸造において酒母は,清酒酵母の大量培養を目的として製造される.伝統的方法で醸造された酒

母である生もとは乳酸菌が醸造に関与するという特徴を持ち,乳酸菌が産生する乳酸によって清酒酵母以

外の微生物の混入を防ぐ.生もと仕込み清酒には乳酸菌の関与による独特の成分プロファイルと呈味があ

ると信じられてきた.しかしながら,生もと仕込み清酒の成分プロファイルや呈味の特徴を詳細かつ包括的に

調査した報告例は無かった.清酒の品質や特性は,日本酒度,酸度,アミノ酸度などの一般分析値を用い

て議論される場合が多いが,生もと仕込み清酒とその他の清酒の一般分析値には顕著な差異は無い.その


一方で,生もと仕込み清酒が比較的高濃度のD-アミノ酸を含有していることが知られている.生もとに由来す

る微細な特徴を検出するのは極めて至難の業であり,生もと仕込み清酒の特徴を理解するためには緻密な

成分プロファイルの解析が必要とされていた.そこで本博士研究では,アミノ酸鏡像体選択的メタボロミクス

解析を用いて生もと仕込み清酒及び酵母仕込み清酒(酒母を使用せず液体培地で大量培養された清酒酵

母で仕込まれた清酒)の成分プロファイルを解析し,生もとが酒質に与える影響について考察した.さらに生

もと仕込み清酒に特徴的な呈味の予測モデルを構築し,D-アミノ酸を含む成分のプロファイルとその呈味との相関を

解析した.LC-MS分析(鏡像体選択的アミノ酸分析)及びGC-MS分析(従来のメタボロミクス解析)の結果を

主成分分析に供して比較したことろ,LC-MS分析の方がD-アミノ酸プロファイルなどの貢献によって生もと仕

込み清酒と酵母仕込み清酒の差異をより顕著に捉えることができた.従って,生もと仕込み清酒のメタボロミ

クス研究におけるアミノ酸鏡像体選択性の有用性が示された.また生もと仕込み清酒は,シトルリン,D-アミノ

酸,シトラマル酸をより高濃度に含有すること,γ-アミノ酪酸(GABA)をより低濃度に含有することがわかった

.官能評価によって濃淡,後味,旨味,甘味,酸味を評価したところ,生もと仕込み清酒は旨味が有意に強

い傾向が観察された.そこで成分プロファイルを用いて旨味の予測モデルを構築した.予測モデルの精度

をR 2 値(直線性),Q 2 値(堅牢性),RMSEE(予測残差)によって評価したところ,従来法よりもアミノ酸鏡像体

選択的方法の方がより高精度のモデルを構築することができた.また旨味強度とシトラマル酸及びD-アスパ

ラギン酸のプロファイルとの高い正相関が示された.

第4章 総括

食品,特に醗酵食品中には多種類のD-アミノ酸が含まれていることがわかっているものの,その食品機能

の解析についてはほとんど進捗が無かった.現状ではD-アミノ酸は食品添加が認められておらず,アラニン

,メチオニン,スレオニン,トリプトファンのラセミ体についてのみ食品グレード試薬の購入が可能である.D-ア

ミノ酸単体の食品添加は現実的に不可能であり,D-アミノ酸の二次機能研究の大きな障壁となっていた.

本研究では,LC-MS分析及びGC-MS分析を組み合わせて用いたアミノ酸鏡像体選択的メタボロミクス解

析によって清酒の成分分析を実施した.D-アミノ酸を含む成分の網羅的プロファイルを説明変数とした呈味

予測モデルの構築に成功し,さらに,D-アミノ酸プロファイルと高い相関を示した呈味項目を特定することが

できた.この結果は,アミノ酸鏡像体選択的メタボロミクス解析が,D-アミノ酸の食品機能に関する議論を始

めるための手がかりを与えることを示唆している.本研究の成果によって,D-アミノ酸を含む醗酵食品の二次

機能解析におけるアミノ酸鏡像体選択的メタボロミクス解析の有用性が示された.

論文リスト 本学位論文に関与する論文

1) Taniguchi, M., Konya, Y., Nakano, Y. & Fukusaki, E. “Investigation of storage time-dependent alternations

of enantioselective amino acid profiles in kimchi using liquid chromatography-time of flight mass

spectrometry” J. Biosci. Bioeng. 124, 414‒418 (2017).

2) Taniguchi, M., Shimotori, A. & Fukusaki, E. “Enantioselective amino acid profile improves metabolomics-

based sensory prediction of Japanese sake” Food Sci. Technol. Res. 25, 775‒784 (2019).

3) Taniguchi, M., Takao, Y., Kawasaki, H., Yamada, T. & Fukusaki, E. “Profiling of taste-related compounds

during the fermentation of Japanese sake brewed with or without a traditional seed mash (kimoto)” J. Biosci.

Bioeng.130, 63‒70 (2020).