2021 TAKEO, Emi

博士学位論文要旨

質量分析イメージングによる新規酵素組織化学手法の開発

大阪大学大学院工学研究科 生命先端工学専攻 生物工学コース

生物資源工学領域(福崎研究室) 竹尾 映美

1章 緒論

酵素活性は酵素の働きおよび生理的役割を知る上で重要な指標であり,転写・翻訳調節などにより酵素発現量が制御され,翻訳後修飾や生体内の周辺環境により活性調節を受ける.酵素活性の変化・異常は疾患の原因・過程や薬物代謝の個人差など様々な生命現象に関わることから,古くからその局在に関して議論がなされてきた.局在の可視化は主に細胞・組織・個体レベルで行われ,様々な酵素活性を可視化すべく蛍光基質やMRIPETプローブなど手法の開発が行われてきた.

酵素組織化学は,組織切片上で酵素反応を起こして組織内酵素活性を可視化する手法である.したがって,生体内に近い環境で容易かつ詳細に酵素活性を可視化することが可能である.従来の酵素組織化学では,酵素反応による一次反応産物を色素塩法・金属塩法に大別される二次反応によって光学顕微鏡・電子顕微鏡で検出可能な最終産物に変換する.しかしながら,二次反応が必須であるため従来の酵素組織化学は特異性に乏しく定量的な議論を行うことが困難である.さらに,検出対象ごとに新たな二次反応を考案しなければならず,現状応用されている酵素以外への応用も困難であった.

当該課題を解決する方法として,近年質量分析イメージング(MSI)が酵素組織化学の新規検出法として着目を浴びている.MSIは,組織切片上の分子を直接イオン化・質量分析する一連の流れを二次元的に行い,組織切片中の代謝物・タンパク質など様々な分子の局在を可視化する方法である.基質と生成物を異なる質量で検出可能であり二次反応を必要としない.この利点から,MSIを用いた酵素組織化学は2012年の導入以来,プロテアーゼ・リパーゼ・ホスファターゼ・キナーゼに応用され,ペプチドおよび脂質を基質とした酵素反応の特異的可視化が行われてきた.しかしながら,MSIによる酵素組織の報告はこれまで5例しかなく,未だ発展途上である.また,既報でも以下のような課題は未知のままである.(1)低分子基質での応用可能性,(2)定量的議論の不足,(3)従来の酵素組織化学において報告のない酵素反応への適用可能性.

本博士研究では, 以上のMSIを用いた酵素組織化学における課題を解決すべく,低分子代謝物であるアセチルコリンの代謝に関連するエステラーゼおよびアセチルトランスフェラーゼを対象とした定量的酵素組織化学手法の開発を目的とした.

2章 MSIを用いたコリンエステラーゼ(ChE)の定量的酵素組織化学手法の開発

ChEは,アセチルコリンなどコリンエステル類のコリンエステルを加水分解する酵素である.神経伝達で重要な役割を果たすことから,これまで脳など中枢神経系においてその活性および局在が議論されてきた.したがって,本章では,MSIを用いてChE活性を定量的に可視化可能な酵素組織化学手法の開発を試みた.

まず,生体内に高濃度で多く存在するアセチルコリン/コリンを対象とするにあたり,基質に重水素標識されたアセチルコリンd9を使用した.しかし,アセチルコリンd9を供給・反応させて得た基質および生成物のMSI結果は,組織部位特異的なマトリックス効果を受けて正確な局在分布を示さなかった.これを解決するため,イオン化効率を考慮した画像補正式を導入し,マトリックス効果の補正を行った.開発した手法によりマウス脳矢状断面における相対的ChE活性分布画像を取得した.得られた結果は,過去に報告されたレーザーマイクロダイセクションによる部位摘出により生化学的な手法で得た酵素活性測定と同程度の良好な相対定量性を示し,手法の定量性・妥当性が評価された.また,開発した手法によって組織切片上で直接かつ半定量的に酵素活性を可視化できるようになったことで,マウス脳の海馬・小脳・視床下部における詳細なChE活性の分布の取得および定量的議論に成功した.次に2種類のChE(アセチルコリンエステラーゼとブチリルコリンエステラーゼ )に特異的な阻害剤を添加すると,それぞれマウス脳全体もしくは脳梁特異的な阻害が確認され,各ChEの脳内分布報告と対応する結果が得られた.また,キイロショウジョウバエに本手法を適用すると,頭部・胸腹部神経節のコリン作動性神経中の膜結合型ChE活性が確認され,異種動物間での汎用性も確認できた.さらに,血リンパ由来の可溶型ChE活性が初めて組織内で直接可視化され,可溶型酵素を含む様々な形態のChE活性分布を定量的に可視化するのに本手法が有用であることが示された.

従来のChEに対する酵素組織化学手は定量性に乏しく・また可溶型ChE活性の可視化が困難であった.一方,標的部位の摘出および酵素活性測定による定量的ChE活性評価では微小部位のChE活性測定が困難であった.本章におけるMSIによる定量的ChE活性可視化手法の開発により,ChE活性の「直接」かつ「定量的な」可視化が可能になり,従来の手法では得られなかったChE活性の分布に関する新規な知見が得られた.

3章 コリンアセチルトランスフェラーゼ(ChAT)を対象とした酵素組織化学によるde novoアセチルコリン合成の可視化

ChATは神経伝達物質アセチルコリンの合成を担い,神経伝達において重要な役割を果たしているが,これまで組織内で直接可視化する方法は存在しなかった.本章では第2章で開発したMSIによる定量的酵素組織化学手法を応用し,ChAT活性の定量的酵素組織化学手法の開発を行った.

ChATによるアセチルコリン合成反応も組織上で達成された報告がなく,反応効率および条件が不明である.本章では初めに基質溶液の基質濃度・溶媒を検討した.さらに,ChATにより合成されたアセチルコリンは直ぐにChEにより分解されてしまうことから,ChE阻害剤のフィソスチグミンを基質溶液に添加した.検討した条件を元にChAT反応を達成し,さらに2章同様に画像の補正式を適用することで,マウス脳矢状断面においてChAT活性の定量的分布画像の取得に成功した.得られたChAT活性分布は過去に報告された部位摘出および生化学的な手法で得た酵素活性測定と同程度の定量性を示しており,線条体および橋において強いChAT活性が確認された.さらに,線条体および小脳の微細構造における特徴的なChAT活性が新たに明らかになり,開発した手法がChAT活性の半定量的検出および可視化に有用であることが示された.手法をラット脊髄に適用すると,免疫組織化学染色においてChATタンパクの発現が確認された前角や前根以外にも,前角と前根を繋ぐ腹側白質部の軸索中ChAT活性が初めて可視化された.最後に第2章と本章で開発した手法を脊髄損傷モデルマウスの脊髄に適用し,一次損傷と二次損傷のChATおよびChE活性への影響を調べた.ChE活性には有意な差が見られなかったが,ChAT活性に関しては,一次損傷では損傷部位の前角において活性が低下し,二次損傷では損傷下部の腹側白質部において活性が上昇した.すなわち,一次損傷と二次損傷がChAT活性に与える影響は部位特異的かつ異なる形で現れることが明らかになった.

げっ歯類の脊髄は直径が5 mm未満と小さく白質・灰白質や前角などの部位毎における酵素活性測定は困難である.しかし,本手法の開発により組織切片一枚の中でChAT活性の議論が可能になり,新規知見が獲得できた.また,MSIを用いた酵素組織化学をChAT活性へ応用したことで,従来の酵素組織化学では可視化困難な酵素反応に対しても応用可能であることが世界で初めて示され,MSIによる酵素組織化学の更なる応用可能性が示唆された.

4章 総括

MSIによる酵素組織化学は,特異性・定量性・汎用性の点において従来の酵素組織化学が持つ課題を解決し,新たな酵素組織化学手法として酵素活性研究において重要なツールとなり得ると期待される.しかしながら,MSIによる酵素組織化学は近年開発された手法であり,未だ多くの発展の余地があった.

本博士研究では,重水素標識された基質の使用およびMSI結果の補正式の導入行うことで,ChEおよびChATを半定量的に組織切片上で可視化可能なMSIによる酵素組織化学手法を開発した.本研究で構築した手法は,マウス脳およびキイロショウジョウバエにおける詳細なChE活性を定量的かつ包括的に明らかにし,さらにげっ歯類の脳および脊髄において特徴的なChAT活性分布を初めて可視化することに成功した.この結果は,組織切片上での「直接」かつ「定量的な」酵素活性の可視化が微小部位や量の少ない試料において有用であることを示唆しており,今まで理解し得なかった生命現象の解明や疾患の基礎解明に大きく貢献可能であると考えられる.さらに,本研究結果によってMSIによる酵素組織化学の低分子基質およびアセチル基転移酵素への応用が示され,今後もMSIによる酵素組織化学が様々な酵素反応へ応用されると期待される.

論文リスト 本学位論文に関与する論文

1) Emi Takeo, Eiichiro Fukusaki, Shuichi Shimma, Mass Spectrometric Enzyme Histochemistry Method Developed for Visualizing In Situ Cholinesterase Activity in Mus musculus and Drosophila melanogaster, Anal. Chem., 92, 12379-12386 (2020).

2) Emi Takeo, Yuki Sugiura, Yuichiro Ohnishi, Haruhiko Oshima, Eiichiro Fukusaki, Shuichi Shimma, Mass Spectrometric Enzyme Histochemistry for Choline Acetyltransferase Reveals de novo Acetylcholine Synthesis in Rodent Brain and Spinal Cord, ACS. Chem Neurosci. (in review)