2022 ARAKAWA, Shoya

博士学位論文要旨


微量臨床検体のGC/MSメタボローム分析に資する基盤的研究


大阪大学大学院工学研究科 生命先端工学専攻 生物工学コース

生物資源工学領域(福崎研究室) 新川 翔也


第1章 緒論

メタボローム分析は生体内代謝物を網羅的に分析するアプローチである.代謝物はセントラルドグマの最下流に位置し,表現型に最も近い物質であることから,多変量解析と組み合わせて精密表現型解析に用いられる.複数のメタボローム分析機器の中で,ガスクロマトグラフィー質量分析法(GC/MS)は分離能や保持時間の再現性が高く,電子イオン化法(EI)で観測されるマススペクトルライブラリが整備されていることから,対象化合物を指定しないノンターゲットメタボローム分析の標準的な分析手法として認知・頻用されている.

メタボローム分析の重要な応用先の一つに,臨床検体をサンプルとした疾患機序推定およびマーカー分子探索がある.一般的に臨床検体の採取には侵襲性を伴うことから,被験者への負担を最小限に留めるために採取量が制限される.十分なサンプル量が確保されない場合,実施困難となるかデータ品質が低下すると考えられる.そのような場合においても分析機器はそれらしい値を出力し,偽陽性のマーカー代謝物が見いだされてしまう.しかしながら,微量臨床検体のメタボローム分析において採取方法や前処理方法についてその妥当性を議論している文献はほとんどない.

これらの研究背景から,本博士研究では微量臨床検体(数µL)に適したGC/MSメタボローム分析法の構築を目的とした.採取方法および前処理方法の最適化を行い,通常のメタボローム分析と比較して考慮すべき点を議論したのち,実検体を用いてその影響を評価した.


第2章 実験器具に由来するブランクマトリックスがGC/MSメタボローム分析に与える影響

はじめに,従来の分析法を基準としてスケールダウン(試薬比率一定で総体積を減少させる)を検討した.しかしながら,データ構造の違いを見出す主成分分析(PCA)はスケールダウン比率に即したトポロジーを示したことから,当該アプローチでは本来の代謝物プロファイルを正常に取得できない可能性が示唆された.データを精査すると,スケールダウンに伴ったサンプル由来でない夾雑物質(ブランクマトリックス)の濃縮が確認され,これを示すように1 µLあたりの接触表面積(計算値)に対する相関係数は0.9以上であった.

スケールダウンによるアプローチでは限界があることが明らかとなったため,別のアプローチとして分析カラムに導入するサンプル量の増加させた場合を評価した.当該アプローチは顕著な効果を示さなかったが,抽出溶媒比率を大きくすることで代謝物カバレッジの向上が期待された.

ここまでの結果からブランクマトリックスがデータ品質に影響を与えることが示唆されたため,ブランクマトリックスの除去が必要だと考えた.実験器具に由来するブランクマトリックスの混入を低減するため,各実験器具に由来するピークを最小二乗-判別分析(PLS-DA)による抽出・比較した結果,プラスチックフィルム性梱包材に由来する可塑剤やプラスチック容器の離型剤などが見いだされた.各実験器具の中から最もブランクマトリックスの少なかった器具を選定し,以後の実験に使用した.

最適化した前処理方法(新規法)について,市販ヒト血漿をサンプルとして適用性を検証した.新規法は従来法と比較してより多くのピークを検出可能であり,分析再現性についても従来法と同等だった.この結果から,従来法よりも抽出効率が良いメタボローム分析方法の開発に成功したと結論づけた.また,微量サンプルのメタボローム分析においては,少ないサンプル量から効率よく抽出を行うために抽出溶媒比を大きくすること,分析再現性の改善にブランクマトリックスの除去(特に誘導体化時の容器由来)が重要であることが明らかとなった.

第3章 採取器具に由来するブランクマトリクスがGC/MSメタボローム分析に与える影響

前章の結果を受けて,前処理のさらに上流に位置するサンプル採取においても同様の減少が起きうると考え,これを検証した.本章では,メタボローム分析法の標準化がなされてない臨床検体として,歯肉溝滲出液(GCF)を対象とした.頻用されるGCF採取法であるペリオペーパーを対照とし,ブランクマトリックスの混入を回避する採取法としてピペットチップ採取を提案し,微量臨床検体のメタボローム分析に求められる要件を満たしているか検証を行った.

サンプル負荷なし条件での検出ピークを比較すると,ペリオペーパー採取ではブランクマトリックスとして紙片から溶出したと思われる糖類関連物質や,梱包材または樹脂部に由来すると思われる脂肪酸,および多量のフタル酸ジエステルが検出された.その一方で,ピペットチップ採取ではこれらのピークはほぼ検出されなかった.サンプル負荷あり条件では上記のブランクマトリックスがサンプル由来のシグナル検出を阻害しており,一部の代謝物ではピペットチップ採取でのみサンプル負荷量に応じた検出強度の増加が確認された.このことから,ブランクマトリックスの低減によって広範囲の代謝物カバレッジが得られると推察され,ピペットチップ採取がGCFのメタボローム分析に適していることが確認された.

ピペットチップ採取および前章での内容を含む分析法が臨床検体に適用可能かどうか検証するために,歯周病患者からGCFを採取し,分析を行った.PCAの結果はプロービング深度やプラークの付着状況を反映しており,以前に唾液メタボローム分析で報告されたものと同種の代謝物が特徴的なものとして挙げられた.この結果から当該採取法および分析法がGCF分析に適したものであるとともに,サンプル採取でもブランクマトリックスを排除することの重要性が示された.


第4章 マウス血漿を用いた微量臨床検体のメタボローム分析系の検証

最後に,微量臨床検体が通常量の臨床検体と同様の代謝物プロファイルが得られるかどうか検証するため,マウスの異なる部位から血漿を採取し,採取量の多い部位(顔面静脈血)を従来法および新規法,採取量の少ない部位(尾部静脈血)を新規法で分析した.微量血漿の採取には,最もブランクマトリックスの混入が少ないとされるフューズドシリカキャピラリーチューブを用いた.

検出代謝物を比較すると,従来法で検出されたピークのほとんどは新規法でも検出されたものであり,新規法ではより多くの代謝物を検出可能であった.また,共通して検出された代謝物においても新規法で高い強度が得られた.このことから,微量臨床検体におけるメタボローム分析系が構築できたと結論付けた.


第5章 総括

微量臨床検体によるメタボローム分析はこれまでの適用範囲を拡大するものであり,乳幼児やアスリートを被験者とする場合や,短期間のタイムコースサンプリングなど,従来では実施困難または高い侵襲性による倫理障壁の高い実験計画を容易にするものである.

本研究は,微量臨床検体の分析で顕著に問題となるブランクマトリックスの影響を明らかにし,ブランクマトリックスを低減させることで高感度・広範囲での代謝物検出が可能となることを示した.メタボローム分析において,ブランクマトリックスが与える負の影響を論じた報告はこれが初めてである.


論文リスト 本学位論文に関与する論文

1) Shoya Arakawa, Masahiro Furuno, Eiichiro Fukusaki, Minimization of adverse effects of blank matrices from various apparatuses in the downsizing of gas chromatography-mass spectrometry-based metabolomics, J. Biosci. Bioeng. 132, 102-107 (2021).

2) Shoya Arakawa, Masae Kuboniwa, Akito Sakanaka, Atsuo Amano, Eiichiro Fukusaki, The effect of sampling tools for gingival crevicular fluid in gas chromatography-mass spectrometry-based metabolomics, J.Periodontal Res. (submitted)